大型株
第二次ポエニ戦争の講和条約で、ローマはカルタゴからヒスパニアの支配権を奪った。しかしその実質的支配は地中海に面した海岸部と、半島の南部に限られていた。ルシタニア人は、ローマ支配が及ばないイベリア半島の中西部、現在のポルトガル中・北部から、スペイン中西部に住んでいた。第二次ポエニ戦争の直後にローマと戦って敗れた。 戦争中の前153年に、ローマは半島中部のケルティベリア人を相手にヌマンティア戦争を始めた。二つの戦争は近接並行していたが、ローマの敵同士の提携は文献で確認できない。 戦争は前155年にルシタニア人の略奪遠征で始まった。ローマ軍はルシタニア軍を押し返してから、降伏した者多数をだまし討ちにして殺した。残ったルシタニア人はウィリアトゥスのもとに結集し、度々ローマ軍を破った。武勲を認められたウィリアトゥスはルシタニア人の王になった。その後の戦争は一進一退だったが、前140年にローマはウィリアトゥスの部下に賄賂を贈って、王を殺させた。名将を失ったルシタニア軍をローマはたやすく破り、降伏させた。しかししばらくするとルシタニア人は独立を取り戻した。 先住民族はイベリア人とされているが、ケルト人やフェニキア人・ギリシア人なども入植している。カルタゴ支配(植民地)を経た後に古代ローマの支配下に入り、ヒスパニア・キテリオール(イベリア半島北部)、ヒスパニア・ウルテリオール(イベリア半島南部から西部、現在のスペイン・アンダルシア州とポルトガル主要部に相当)の2つに分かれるが、ヒスパニア・ウルテリオールは帝政ローマ時代にバエティカとルシタニア(ポルトガル)に分かれる。 最初にこの地にやってきた人種はルシタニ族と呼ばれている。インド・ヨーロッパ語族という事からアルプスより移動してきた可能性はある。紀元前6世紀の事と言われるが、歴史学、考古学としてはいまだ時代の裏付けは定まっていない。ルシタニ族はカルタゴの傭兵として初めてリウィウスの記述に出てくる。 紀元前179年、ルキウス・ポストゥニウス・アルビヌスがルシタニ族を撃破した功績(第一次ケルティベリア戦争)により凱旋式を敢行している。しかし紀元前155年にルシタニ族はジブラルタルまで南下、同地でルキウス・ムミウスに敗れる。 セルウィウス・スルピキウス・ガルバはルシタニ族と同盟を結ぶと騙してルシタニ族を殲滅、捕虜にした者を奴隷として売り払ったが、これがさらなる反乱を引き起こした(ルシタニア戦争)。その後デキムス・ユニウス・ブルートゥスとガイウス・マリウスが紀元前113年勝利を挙げるが、ルシタニ族は戦局をゲリラ戦に展開。最終的にアウグストゥスによって制圧された。 アウグストゥスによってイベリア半島の制圧が完了すると、3分割され、北東方は「タラコネンシス」、南方は「ビエティカ」西方は「ルシタニア」と名付けられた。 皇帝ネロの時代にはネロの友人でもあったオトが総督としてこの地域を統治、善政を布いた。しかし隣国タラコネンシスの総督であったガルバがネロに反旗、オトもガルバを支持、ネロは元老院より「国家の敵」と宣言され、自殺する。そしてユリウス・クラウディウス朝は断絶、内乱期の幕開けとなる。 ポルトガルの国民詩人ルイス・デ・カモンイスの有名な詩「ウズ・ルジアダス」がある。 この名を持つイギリス船籍の先物取引 に起こったルシタニア号事件が、第一次世界大戦におけるアメリカ参戦の契機となった。 古くはローマ帝国の支配にまで遡る。ローマ帝国滅亡後はゲルマン系の西ゴート王国の支配下に置かれるが711年ウマイヤ朝の攻撃により西ゴート王国は滅亡、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝であるウマイヤ朝が代わって支配することになる。ウマイヤ朝が滅亡するとその子孫がイベリア半島へ逃亡、後ウマイヤ朝を建てる。 一方北部にはアラゴン王国やレオン王国、カスティーリャ王国などのキリスト教国が建国され、レコンキスタを推し進めていった。1031年には後ウマイヤ朝が滅ぼされ、その領域であったイベリア半島南部は同じくイスラム王朝のムラービト朝、その後ムワッヒド朝の支配下に置かれることになる。 次第に力をつけていったキリスト教国は次第にイスラム王朝を南へ南へと圧迫し、その支配領域を広げていく。1479年にはアラゴン国王とカスティリア国王の結婚によりスペイン王国が成立、レコンキスタに拍車がかかり、とうとう1492年にはイベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝が滅ぼされ、イベリア半島からイスラム王朝は完全に駆逐された。 以降はスペインとポルトガルがイベリア半島を支配することになった。 キンブリ・テウトニ戦争(―せんそう)とは、紀元前2世紀の終わり(紀元前113年-101年)に民族系統不明のキンブリ人、ゲルマン系の民族であるテウトニ人が、古代ローマ共和国の本拠地であるイタリア半島へ侵攻したことによって起きた戦争である。ローマ軍は、ノウス・ホモ(新人、それまでに顕職者を出していない家系の出身者)でポプラレス(民衆派)の将軍であるガイウス・マリウスが指揮を執り、これを撃退した。 テウトニ人はローマ人が初めて本格的に衝突したゲルマン人であったため、この種族名はゲルマン人の代名詞のように扱われるようになった。そのためこの語はヨーロッパの諸国語でもゲルマン人、あるいはドイツ人を指す語として使われ続け、例えば英語形の「先物取引 」が、英語圏ではドイツ人をさす語として使われている。ドイツ騎士団もイギリスでは「テュートン騎士団」と呼ばれる。 ドイツ騎士団(独: Deutscher Orden)とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会(ラテン語:Ordo domus Sanctae Mariae Theutonicorum Ierosolimitanorum)。英語では Teutonic Knights と呼ばれ、日本ではその訳語であるチュートン騎士団でも知られる。 本来は12世紀後半のパレスチナで聖地巡礼者の保護を目的として設立されたが、イスラム教徒に根拠地を奪われ、パレスチナを離れた。1226年バルト海南岸のクルムラントを異教徒から防衛するためにポーランド貴族に招聘され、後のプロイセン王国の建国に繋がる東方植民(de)の先駆けとなった。 ドイツ騎士団の前身は、エルサレム日経225 がアイユーブ朝の攻勢の前にパレスチナの領土を失いつつあった12世紀後半、第3回十字軍の一員としてパレスチナに赴いたドイツ出身の戦士たちを保護するため、ドイツ北部の港湾都市のブレーメンやリューベックの貿易商が資金を提供してアッコンに設立したエルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会である。病院を運営した兄弟団は1191年にローマ教皇クレメンス3世によって公認され、教皇庁の保護下に置かれたが、1198年に騎士身分出身の騎士修道士を中心として聖堂騎士団を模範とし、FX 初心者 を頂点とする騎士修道会に再編成された。1199年ローマ教皇インノケンティウス3世はドイツ騎士団を騎士修道会として公認した。 ドイツ騎士団はパレスチナのキリスト教勢力の後退とともに、活動の場をパレスチナに見出すことができなくなった。そこで、1210年に第4代騎士修道会総長になった騎士ヘルマン・フォン・ザルツァ(de)はハンガリー王アンドラーシュ2世の招きに応じて翌1211年にハンガリー領に移り、同国王からトランシルヴァニア(現ルーマニア領)のプルツェンラントをドイツ騎士団の所領として付与され、周辺のクマン人に対する防衛を担った。これが後に、聖地の防衛者ではなく異教徒に対する尖兵としてのドイツ騎士団の性格を決定付けることになる。 ヘルマン・フォン・ザルツァは優れた政治家で、やがてハンガリー王国の従属から離れ、ドイツ騎士団の国を創り上げようとした。1224年、ザルツァはローマ教皇ホノリウス3世にプルツェンラントをハンガリー王国から切り離させ、教皇支配地とすることを要請し、教皇に教皇直轄領と宣言させることに成功した。しかしこの動きに激怒したアンドラーシュはローマ教皇の命令を無視し、1225年に騎士修道会をトランシルヴァニアから追放した。 本拠地を再び失ったドイツ騎士団であったが、ドイツ騎士団の国を創り上げる3回目の試みは成功した。1225年の暮れ、今度はポーランドのワルシャワ周辺を中心に勢力を持つマゾフシェ(マソヴィエン)公コンラート1世マゾヴィエツキに招かれ、バルト海南岸の異教徒からクルムラントの防衛を担うよう要請された。この要請は後に「ポーランド史上最大の誤り」と言われる。 ともあれ、ハンガリーでの失敗に懲りたザルツァは周到に準備を行い、神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世と交渉して、1226年のリミニ金印勅書で騎士団に「クルマーラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」としての法的地位を認められた。これは異教徒の先住プロイセン人(独:Baltische Pruzzen, 英:Baltic Prussians)の土地を征服、領有する権利を保証するものである。1230年にはローマ教皇グレゴリウス9世から、異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為であるとして、武力によるキリスト教化を正当化する教勅を与えられ、満を持して先住プロイセン人の土地の征服に着手する。 騎士団は1283年まで50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄させた。さらに征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設された。この圧力の前に先住プロイセン人はドイツ人やポーランド人に同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かう。 ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領として宗教的共和国とも言える統治体制を築いた。騎士団国家は14世紀には最盛期を迎え、騎士団の勃興と同じ時期に経済的に発展し始めた西ヨーロッパに穀物を輸出し、経済的にハンザ同盟都市と深く結びついていた。ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、エルビンク(現エルブロンク)はドイツ騎士団の下で発展を遂げた貿易都市である。いずれも大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えた。一方エルビンクとはライバル関係にあったダンツィヒ(現グダニスク)はドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランドの庇護を望んでドイツ騎士団とは何世紀もの長い間抗争を繰り返すこととなった。また、実はエルビンクの住民もドイツ騎士団による支配を嫌がっていた。1410年にドイツ騎士団がタンネンベルクの戦いで敗北する(次項参照)とエルビンクは公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、1569年には正式にポーランド王国に加盟することになる。 騎士団は1237年にはラトヴィアの征服事業を進めていたリヴォニア帯剣騎士団を吸収し、事業を続行した。しかし、エストニアの領有をめぐってデンマークと争うことになり、また東の正教国のノヴゴロド共和国との争いでは、1242年チュード湖の氷上の戦いでアレクサンドル・ネフスキー率いるノヴゴロドの軍に破られた。プロイセンの東隣、ラトヴィアの南隣にあたるリトアニアでは異教徒のリトアニア大公国が誕生し、ドイツ騎士団はこの強国との間で恒常的な戦闘を続けることになる。